02-か行, 0202鹿島町

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<写真>

<地図>松江市鹿島町佐陀本郷

<碑文>

増田渉君の帰国を送る

扶桑(日本)は正にこれ秋光好し、
楓葉は丹の如く嫩寒に照る。
却て垂楊を折り帰客を送る、
心は東棹に随って華年を憶う。

 増田歩が日本に帰る際、魯迅が贈った送別
の詩で、「日本はいま紅葉の美しい秋であろ
う、貴方が国へ帰るにつけても、私も若かり
し日の日本留学時代のことを憶う。」という
意である。
 この詩は、一九七八年日中平和条約批准の
ため来日した鄧小平福総理が歓迎の席で日中
友好の好例として紹介している。



 増田渉先生は明治三十六年、鹿島町片句に
生まれた。
 東京帝国大学を卒業し、昭和六年、上海に
わたり、魯迅に親しく教えを受けた。帰国後
も片句と上海との間で文通が続き、その親交
は日中両国の友好を示す逸話となっている。
「中国小説中略」の翻訳をはじめ、「魯迅の
印象」を著すなど、中国文学を広く紹介する
とともに、その基礎的研究を深め、新しい方
面を示したことは大きな功績である。
 戦後は、島根大学を大阪市立大学、関西大
学などで、その後進を育てた。
 昭和五十二年、中国文学者竹内好への弔辞
を朗読中に倒れ、その生涯を閉じた。

   平成五年三月    鹿島町

<建立>

平成5年(1993年)3月(碑文より)

02-か行, 0202鹿島町

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<写真>


<地図>松江市鹿島町佐陀宮内

<説明文>
この石碑は、清原太兵衛が一身を賭して佐陀川開削の大事業を成し遂げたことを顕彰し、後世に伝えるため昭和三年九月、清原太兵衛頌徳会が中心となって建設した。
石碑の裏面に記されている文章の概要は左記の通りである。

  概要

斐伊川が東流(1635~1639)したことにより、宍道湖周辺はしばしば洪水に襲われ、松江藩はその対策に腐心していた。
天明に入るととくにその被害が甚大で、同5年(1785)、清原太兵衛の12回に及ぶ建議を容れ、藩は漸く佐陀川開削に着手。藩命を帯びた太兵衛は、宿願を適えんと勇躍佐陀の地に赴き、多くの困難を克服、約3年の歳月を経て完成に漕ぎ着けた。
だが、太兵衛は、一ヶ月半後に控えた盛大な川開き式を前に、それを見ることもなく、同7年11月28日、にわかに逝去した。翁、76歳の偉大な生涯を終えた。
その後の佐陀川は、洪水の緩和や新田開発に役立つと共に、松江と日本海を結ぶ最短航路として、松江を始め周辺部に文明開化にも及ぶ効用をもたらした。

  平成18年3月吉日
  清原太兵衛顕彰会
<建立>
昭和3年(1928年)9月建立(説明板より)

05-な行, 0508西浜佐陀町

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<写真>

<地図>松江市西浜佐陀町

<碑文>
田尻栄利氏
 顕彰碑
  佐野廣書

 田尻栄利氏は、明治三十八年八月十日 松江市古曽志町に生まれ 大正十三年松江農林学校を卒業 島根県農務課に奉職の後 昭和十六年抜擢されて島根県農会技師となり 次来農業関係団体の要職を歴任した この間 若き情熱をもって専心職務に精励し 農業に対する限りない愛情を深め 卓越した識見を積み 信望をあつめ 昭和二十八年一月推されて古江村農協組合長となった
 生来豪毅 責任感旺盛 就任以来不屈の協同精神を発揮 比類まれな先見性を発揮し 特に昭和三十年から二期八年間 松江市議会議員として 行政 経済両面から地域農業の近代化と農協発展に挺身したことは特筆すべきことであった
 昭和三十八年三月 他に先んじて法吉 生馬 古江 秋鹿 大野の五つの農業協同組合の合併を実現し 以来組合長として円熟した人格と 豊富な経験から得た 該博な知識のもと 常に時代を先どりし 明確な判断力と 卓越した指導力により 農協の在り方を示範し 日夜奔走 地域の発展と農業の振興に貢献 中でも地区内水田の大部分にわたる圃場整備事業の実現 特産いぐさ 葉たばこの振興 各種農業近代化施設の導入等々 その功績は多大であり 景仰感謝の的であった
 昭和四十八年四月十七日 忽然としてその道に殉じ まさに奮迅の一生を全うした 生前の功労は高く評価され 國は 氏の多年の功績に対し 従六位勲五等に叙し偉業を顕彰した
 この傑出した人士の功績を広く後世に伝え後進の育成を図らんとし ここに顕彰碑を建立し 永く遺徳を偲ばんとするものである
  昭和五十四年十一月吉日
    顕彰碑建設委員会
<建立>
昭和54年(1979年)11月(碑文より)