01-あ行, 0103内中原町

<写真>


<地図>松江市内中原町

<碑文>
小橋先生は 大正二年当校を卒業され尓後貧困その他悪条件にもめげず苦学力行 松江中学校 京城医学専門学校に学び 満州新京に於いて順天病院を経営されました
昭和十六年母校 内中原小学校の校地の狭隘を聞くや直ちに率先して多額の浄財を寄託され これにより約五百坪の校地が拡張されました
新校舎落成に当り 終戦時家族と共に自刃散華された先生の遺徳を後世に伝え且慰霊の誠を捧ぐべくこの碑を建立します
  昭和五十三年十月
    古津千次郎(昭和十六年当時校長)
<建立>
昭和53年(1978年)10月(碑文より)
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03-さ行, 0304宍道町

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<写真>

<地図>松江市宍道町昭和

<碑文>
碑文
持田啓太郎翁ハ明治元年八月十四日本町伊志見持田房太郎氏ノ三男ニ生レ明治三十四年宍道村書記ニ就任以来助役村長ヲ歴任シ昭和二年進ンデ町制ヲ施行シテ初代町長ノ重キニ任ジ昭和十三年退任ニ至ルマデ三十有八年ノ長キニ渉ツテ町村自治ニ其全生涯ヲ捧ゲタガソノ間日清日露両戦役ニ従軍シテ武勲ヲ樹テタコトハ翁終生ノ誇トスルトコロデアツタ氏ハ資性敦撲ニシテ思慮周密飄々模糊タル中ニ頴智ヲ藏シテ和協滑脱裡ニ能ク幾多業績ヲ挙ゲタガ就中町制ヲ布キテ役庁舎ヲ改築シ又出雲製織宍道工場ヲ誘致シタコト等ハ其不滅ノ偉業デアツタ翁ノ如ク身権門ニ出デズシテ能ク衆ヲ率イテ自治ヲ主宰シ永年ノ功ヲ致シタコトハ遍ニ其徳識ノ然ラシムルトコロデ正ニ郷村ノ優材デアツタ其痩躯鶴ノ如キ風姿ハ一郷ノ長老トシテ町民敬慕ノ的デアツタガ昭和十五年五月十六日七十三才ヲ以テ病歿シテヨリ既ニ十五年茲ニ町村合併ノ國策ニヨツテ旧宍道町ヲ解キテ新生宍道トシテ再誕發足スルニ當リ其高風ヲ永ク後世ニ傳エ郷國自治發展ノ鑑トナサントテ茲ニ此碑ヲ建テタ次第デアル

 昭和三十年三月三十一日

宍道町長 三島四郎識  持田勝三書
     木幡吹月撰
<建立>
昭和30年(1955年)3月31日(碑文より)

06-は行, 0604東出雲町

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<写真>


<地図>松江市東出雲町下意東

<説明文>
第十二代横綱力士 陣幕久五郎

第十二代横綱力士陣幕久五郎は江戸時代最後の幕末随一の強豪力士で、島根県では唯一人の横綱である。
174センチ138キロの筋肉質のガッシリとした体格で、じっくり守勢に構えたらテコでも動かない堅固な取口で、殆どケガ負けが無く「負けず屋の陣幕」と異名をとった。入幕以来、75勝5敗3預り17引き分けで勝率0.946の成績は古今の大力士の中では、雷電、谷風、常陸山に次ぐ抜群の超強豪である。又終生只の一度もマッタをしなかった力士として相撲史上に輝かしい規範を残している。

「受けながら 風の押手を 柳かふ」
横綱となって、名を「通高」と称し、戸籍を陣幕久五郎と定め晩年は「士師通高」と称した。横綱引退後は大阪相撲頭取総長、勧進元を11年間務め実力者として君臨し、大阪相撲を江戸相撲と同格の地位に高めるなど改革を進め、地方力士の育成、国技館建設の企画等、相撲の発展と角界の品位の向上を図り、相撲史上特記される業績を残した。
陣幕は勤王憂国の志強く、幕末から明治維新にかけての急激な変革と世情動乱の中を、旺盛な覇気と行動力で生きぬき、岩崎弥太郎・西郷隆盛・清国李鴻章など、政財界、有名人の幅広い人脈を築き交流を深め、人間的修養を積んだ。

敬神崇仏の念に厚く、独学で全国各地の社寺仏閣へ鳥居、玉垣、石燈等の寄進は枚挙にいとまがない。
51才で相撲界を引退、歴代横綱力士の顕彰、建碑に専心し、建碑狂と誤まり伝えられるほど陣幕半生の大事業の実現に没頭した。特に東京深川、富岡八幡宮に建立した「横綱力士碑」は陣幕65才の時発起してから8年を要して竣工落成した。巨石碑では日本一といわれ、歴代の横綱の呼称を天下に定着させ、今日に至らしめた功労者である。
横綱力士陣幕の風格と大きさを現す代表的なものである。
他に明治6年、当地に建立した「日本横綱力士陣幕久五郎通高碑」「初代明石碑」「二代綾川碑」等々いずれもスケールの大きなものである。
茲に九重親方(横綱北の富士)、陣幕親方(横綱千代の富士)を迎え、夢とロマン物語「横綱陣幕久五郎顕彰事業」を記念し、業績を記す。

平成3年(1991年)10月28日