08-や行, 0801八雲町

<写真>

<地図>松江市八雲町

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<碑文>
藤田勇市翁は明治十四年三月二十三日熊野村矢谷部落に生まれ資性俊敏事に当り熟慮断行ひたすら郷土のために熱誠を捧げて居られる徳行の士である
明治三十九年熊野村収入役に就任爾来村長長沢儀太郎翁を敬慕してその薫化を受けること多大一王誠を信条とし夙夜精励し大正七年推されて助役に任じ昭和十五年長沢村長の退任により村長に選ばれ昭和二十一年退職されるまで役場在勤四十有余年身を挺して誠心誠意村治に力を尽くし輝かしい功績を挙げられた昭和三十四年には合併後の八雲村議会議長に就任し新しい村作りにさらに一段の努力をされたのである一方幾多の公共団体に関与して本年八十三歳の高齢に至るまで一途に愛郷心に燃えて公事に尽瘁せられた就中酪農の振興環境衛生の整備全村一斉の電灯の設備熊野大社の御造営財団法人長沢報徳会の設立等は翁が特に心血を注がれた大事業であったこれら多くの功績に対して表彰状感謝状を受けられたこと幾十回に及び昭和三十一年には藍綬褒章受章の光栄に浴されたのである
昭和三十八年一切の公職を退かれるに当り有志相計り翁の徳行を頌えその功績を永く後世に伝えるためにここに建碑に及んだ次第である
昭和三十八年十月

発起人14名、世話人9名、石工1名、銅版彫刻1名、造園1名
(関係者氏名が記載されていますが記載省略します)
<建立>
昭和38年(1963年)10月(碑文より)

03-さ行, 0301雑賀町

<写真>

<地図>松江市雑賀町

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<説明>
安政6(1859)年生まれ、医師森本鮮庵の養子となり、県立医院などで医学や理化を学んで開業資格を取得、明治17年上京して産科婦人科の専門を学び宮城病院で佐々木文蔚に教えを受け翌年帰郷、雑賀町に医院を開業、民間では例を見ない産婆、看護婦の養成所開設と運営に情熱を傾けた。
当時、産科医や産婆は軽くみられがちで医師会の創設にも奔走、地位向上に尽くした。産婆養成事業は公的補助を受けることなく私財を投じて自らの医院に開設、のちに看護婦科も併設した。
碑は薫陶を受けた教え子たちが建立した。(説明板より)
<建立>
大正3年(1914年)建立(説明板より)

01-あ行, 0102魚町

<写真>

<地図>松江市魚町

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<碑文>
明治元年二月雲州松江藩は明治新政府山陰道鎮撫使西園寺公望卿を迎え存亡の危機に立ったこの時藩の鍼医錦織玄丹の娘加代女はすすんで接待の任に当りその容姿と侠気は一行の胆をひしぎ藩の急を救うに役立ったという晩年酬われなかったが維新の大波瀾に遭遇し身を挺し松江女の気慨を示した玄丹お加代の名を語り継ぐよう由縁の地にこの碑を建立するものである

昭和47年11月松江市民有志
吉村ヨシノ書
<建立>
昭和47年11月建立(碑文より)