03-さ行, 0304新雑賀町

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<写真>


<地図>松江市新雑賀町

<碑文>
渡部寛一郎先生 私塾普通學舎跡
寛一郎は明治十六年この地に「普通學舎」を開き中学校や師範学校の入学準備や教員検定の志願者に教育学・教授法の指導にあたった。
新知識と技術を教えた寛一郎の指導は学生の敬慕の的となり県内外から学ぶものが多かった。塾生は、百八十三名を数える。自主独立を基本とした教育精神は島根の近代的学校の先駆者的役割を果たした。
資料は後に南田町旧藩木実方に設立した私立修道館資料と共に雑賀教育資料館に保存されている。
<建立>
平成20年(2008年)11月吉日(碑文より)

04-た行, 0404竹矢町

<写真>

<地図>松江市竹矢町

<碑文>
昭和34年12月31日建
   文化財保護委員会
   松江市
<建立>
昭和34年(1959年)12月31日建立(碑文より)
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03-さ行, 0303白瀉本町

<写真>

<地図>松江市白潟本町

<碑文>
小泉八雲ゆかりの地-10 源助柱・大庭の音のする石
堀尾吉晴公が初めて橋を架けようとした時、余りにも難工事だったため一人の男を人身御供にした。その源助の名をとって大橋の中央の柱を源助柱と呼んだ。小泉八雲は著書「神国の首都」に興味深く記している。
また打てば鐘のようにひびく大庭の石は、一定の距離以上へ運び去ることは出来ないという伝説の通り、松平公がその一個を松江城に運ばせようとした時、石が非常に重くなってきて千人かかっても大橋から先へ動かすことが出来なかった。
     著書 知られぬ日本の面影・八重垣神社
小泉八雲は島根県尋常中学校赴任のため、1890(明治23)年8月30日に松江入りしたが、その際、彼をのせた汽船はこの付近に到着したといわれる。

LAFCADIO HEARN-10
The Memorial Monument for Gensuke and the Musical Stone of Oba Gensuke “had lived in the street Saikamachi” and was “put under the bridge” as a victim.”The midmost pillar was called by his name,-Gensuke – basira”(Chief City”).
There is a legend about the Musical Stone of Oba that it cannot be carried beyond a certain distance.When a daimyo (a feudal lord) ordered it to be conveyed to his castle at Matsue,the Stone made itself so heavy that a thousand men could not move it.So it was abandoned before the bridge.(“Chief City”)
Lafcadio Hearn came to Matsue City to teach at the Shimane Middle School on August 30th,1890.
It is said that his ship arrived in this area.
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