03-さ行, 0303白瀉本町

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<写真>

<地図>松江市白潟本町

<碑文>
小泉八雲ゆかりの地-10 源助柱・大庭の音のする石
堀尾吉晴公が初めて橋を架けようとした時、余りにも難工事だったため一人の男を人身御供にした。その源助の名をとって大橋の中央の柱を源助柱と呼んだ。小泉八雲は著書「神国の首都」に興味深く記している。
また打てば鐘のようにひびく大庭の石は、一定の距離以上へ運び去ることは出来ないという伝説の通り、松平公がその一個を松江城に運ばせようとした時、石が非常に重くなってきて千人かかっても大橋から先へ動かすことが出来なかった。
     著書 知られぬ日本の面影・八重垣神社
小泉八雲は島根県尋常中学校赴任のため、1890(明治23)年8月30日に松江入りしたが、その際、彼をのせた汽船はこの付近に到着したといわれる。

LAFCADIO HEARN-10
The Memorial Monument for Gensuke and the Musical Stone of Oba Gensuke “had lived in the street Saikamachi” and was “put under the bridge” as a victim.”The midmost pillar was called by his name,-Gensuke – basira”(Chief City”).
There is a legend about the Musical Stone of Oba that it cannot be carried beyond a certain distance.When a daimyo (a feudal lord) ordered it to be conveyed to his castle at Matsue,the Stone made itself so heavy that a thousand men could not move it.So it was abandoned before the bridge.(“Chief City”)
Lafcadio Hearn came to Matsue City to teach at the Shimane Middle School on August 30th,1890.
It is said that his ship arrived in this area.

03-さ行, 0301雑賀町

<写真>

<地図>松江市雑賀町

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<建立>
平成24年(2012年)11月(碑文より)

03-さ行, 0301雑賀町

<写真>

<地図>松江市雑賀町

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<碑文>
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで功績を挙げた戦国武将堀尾吉晴の子忠氏は、出雲隠岐24万石を拝領、月山富田城に入った。しかし、富田城は山城で城下が狭く移城を決意、幕府に願い出た。
床几山は東が広瀬往還につらなる。二人がこの地で床几に腰掛け話し合ったことからこの名がついた。眼下は意宇郡、北の島根郡にかけて川や沼地が多く水運と防衛上の地形は抜群、城地については吉晴が「荒和井山」忠氏が「亀田山」と考えを異にしたが、忠氏が慶長9年28歳の若さで急死したため、その遺志をくんだ吉晴は亀田山に決め、慶長12年築城を始めた。
吉晴公は尾張国の生まれ天下統一を目指す信長、秀吉に仕えて数々の戦功を挙げ三老中にも列した。普請もまた経験豊富で、城下町松江の礎を成した。
慶長16年69歳で他界。
松江開府の祖吉晴公は城山の松江神社に祀られ、毎年11月3日にはここ床几山に御神霊を遷座、湖都松江のさらなる発展を願う祈念と感謝の儀式が執り行われる。
<建立>
平成24年(2012年)11月吉日(碑文より)
松江開府400年記念
雑賀まちづくり推進協議会