03-さ行, 0301雑賀町

<写真>

<地図>松江市雑賀町

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<説明>
雑賀の足軽の家に生まれ、幼きころより藩儒雨森精翁に学び、26歳の時江戸に出て昌平黌に学ぶ。帰国すると家塾「培塾」を開き、子弟の教育に専念、功績は藩も大いに認め、藩士に昇格させ藩校修道館の教育にも当たらせた。
明治5年の学制公布で、いち早く開設された雑賀小学校の初代校長に就任、「身分は足軽でも学問で出世が叶う」と子弟の奮起を促す存在となり、若槻礼次郎、岸清一ら多くの逸材が育った。(説明板より)
<建立>
明治36年(1903年)建立(説明板より)

03-さ行, 0301雑賀町

<写真>

<地図>松江市雑賀町

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<説明>
安政6(1859)年生まれ、医師森本鮮庵の養子となり、県立医院などで医学や理化を学んで開業資格を取得、明治17年上京して産科婦人科の専門を学び宮城病院で佐々木文蔚に教えを受け翌年帰郷、雑賀町に医院を開業、民間では例を見ない産婆、看護婦の養成所開設と運営に情熱を傾けた。
当時、産科医や産婆は軽くみられがちで医師会の創設にも奔走、地位向上に尽くした。産婆養成事業は公的補助を受けることなく私財を投じて自らの医院に開設、のちに看護婦科も併設した。
碑は薫陶を受けた教え子たちが建立した。(説明板より)
<建立>
大正3年(1914年)建立(説明板より)

03-さ行, 0301雑賀町

<写真>

<地図>松江市雑賀町

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<碑文>
慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで功績を挙げた戦国武将堀尾吉晴の子忠氏は、出雲隠岐24万石を拝領、月山富田城に入った。しかし、富田城は山城で城下が狭く移城を決意、幕府に願い出た。
床几山は東が広瀬往還につらなる。二人がこの地で床几に腰掛け話し合ったことからこの名がついた。眼下は意宇郡、北の島根郡にかけて川や沼地が多く水運と防衛上の地形は抜群、城地については吉晴が「荒和井山」忠氏が「亀田山」と考えを異にしたが、忠氏が慶長9年28歳の若さで急死したため、その遺志をくんだ吉晴は亀田山に決め、慶長12年築城を始めた。
吉晴公は尾張国の生まれ天下統一を目指す信長、秀吉に仕えて数々の戦功を挙げ三老中にも列した。普請もまた経験豊富で、城下町松江の礎を成した。
慶長16年69歳で他界。
松江開府の祖吉晴公は城山の松江神社に祀られ、毎年11月3日にはここ床几山に御神霊を遷座、湖都松江のさらなる発展を願う祈念と感謝の儀式が執り行われる。
<建立>
平成24年(2012年)11月吉日(碑文より)
松江開府400年記念
雑賀まちづくり推進協議会