05-な行, 0502灘町

<写真>

<地図>松江市灘町

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<碑文>
淞高の庭
淞高(旧制松江高等学校)は大正9年に山陰道における最高学府として創立され昭和25年に廃止されましたが我が国教育文化の上のみならず松江市が文化都市として発展するために大きく貢献しました。
このような史実をふりかえり当時の高校生が弊衣破帽をまとい寮歌を高唱しながら逍遙したこの場所に記念の庭を造成しました。
平成7年5月25日
松江市
松江高等学校同窓会
<建立>
平成7年5月25日(碑文より)

05-な行, 0502灘町

<写真>

<地図>松江市灘町

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<碑文>
お加代は、もと松江藩で鍼医・錦織玄丹の娘。明治維新のとき窮地にたった松江藩のために、身を挺して活躍した女性である。慶応4年(1868)山陰鎮撫使い一行は、松江藩が徳川の親藩であるため、その動静に不信を抱き、更に種々の行き違いがあって松江藩に3か条の難問題をつきつけ、ために家老大橋茂右衛門は切腹して謝罪することとなった。藩はこの対策に苦慮し、松江入りした彼らのいうままであったが、この時これら荒武者を酒席で操縦し、一行の態度を和らげて出雲女の義侠心を発揮したのが彼女である。白刃に貫いたかまぼこを平然と紅唇に受けたとか、幹部に迫って家老のいのちを助けたなどが伝えられる。
松江湖城ライオンズクラブは創立30周年に当り郷土を守るために、一大事となれば一身を捧げて対処するという行為を誇りに感じ、玄丹お加代の胸像を白潟公園に建立しその功を後世に残すものであります。
昭和初期お加代の事跡に着目し、顕彰したのは永井瓢斎である。彼の脚本によって大阪で芝居が上演され、その収益で建立されたお加代地蔵は、いまも石橋町光徳寺にある。(碑文より)

03-さ行, 0307末次本町

<写真>

<地図>松江市末次本町

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<碑文>
明治23年8月30日から同年11月末まで宿泊
<説明>
小泉八雲ゆかりの地
明治23年8月30日午後4時、対岸の港に船で着いた小泉八雲は、この地にあった富田旅館に泊った。この宿で迎えた松江の朝を、五感を研ぎ澄ませて観察し、その印象を鮮やかに感銘深く記している。
「松江の一日の物音の中で眠っている人に、まず聞こえてくる物音は、丁度耳底で緩やかな大きい脈が搏つようにひびいてくる。それは柔らかな鈍い衝撃の音だ。(中略)日本人の生活に伴うあらゆる音の中で、私には最も哀れに思われる。米つきの音は日本という国土の脈搏だ。」
『知られぬ日本の面影』第7章「神々の国の首都」より
(説明板より)