02-か行, 0202鹿島町

<スポンサーリンク>




<写真>

<地図>松江市鹿島町南講武

<碑文>

県道野波松江線高田尾峠
改修記念碑
昭和三十年三月

<建立>

昭和30年(1955年)3月(碑文より)

02-か行, 0202鹿島町

<スポンサーリンク>




<写真>


<地図>松江市鹿島町佐陀宮内

<説明文>
この石碑は、清原太兵衛が一身を賭して佐陀川開削の大事業を成し遂げたことを顕彰し、後世に伝えるため昭和三年九月、清原太兵衛頌徳会が中心となって建設した。
石碑の裏面に記されている文章の概要は左記の通りである。

  概要

斐伊川が東流(1635~1639)したことにより、宍道湖周辺はしばしば洪水に襲われ、松江藩はその対策に腐心していた。
天明に入るととくにその被害が甚大で、同5年(1785)、清原太兵衛の12回に及ぶ建議を容れ、藩は漸く佐陀川開削に着手。藩命を帯びた太兵衛は、宿願を適えんと勇躍佐陀の地に赴き、多くの困難を克服、約3年の歳月を経て完成に漕ぎ着けた。
だが、太兵衛は、一ヶ月半後に控えた盛大な川開き式を前に、それを見ることもなく、同7年11月28日、にわかに逝去した。翁、76歳の偉大な生涯を終えた。
その後の佐陀川は、洪水の緩和や新田開発に役立つと共に、松江と日本海を結ぶ最短航路として、松江を始め周辺部に文明開化にも及ぶ効用をもたらした。

  平成18年3月吉日
  清原太兵衛顕彰会
<建立>
昭和3年(1928年)9月建立(説明板より)

02-か行, 0202鹿島町

<スポンサーリンク>




<写真>


<地図>松江市鹿島町恵曇

<碑文>
青山善一郎頌徳碑
     文部大臣 松田竹千代 書

 故青山善一郎氏は島根県八束郡鹿島町大字恵曇町の人なり。明治二十三年五月二十五日善太郎氏の長男として其の郷に生る。長じて島根県立松江中學校を卒え家業を嗣ぐ。性剛毅闊達にして極めて進取の気象に富めり。夙に後進地域の殖産開発の大望を抱き、即ち水産業の振興を圖るべく佐陀運河々口に漁港を拓かんとし大正九年同志と相謀り、江角漁港期成同盟會を結成、自ら會長となりて東奔西走寝食を忘れて之を促進せり。而して大正十年島根県會に於て漁港調査費の可決をみたるにより時の衆議院議員たる予が先考幸雄の協力を求め各方面に不撓不屈の努力を重ねたる結果第四十六国會に於いて之が築港の議決をみるに至れり。斯くして大正十二年度より昭和七年度に至る十年の歳月と百二十余萬圓の巨費とを費やして待望の漁港を竣工し地方産業に一大飛躍の礎を築けり。その間昭和四年恵曇村長に、翌五年島根県會議員に選ばれ、又推されて県會参事會員の要職に就く茲に於いて予て抱懐せる地方殖産の實現を期し漁港の発展策として製氷、缶詰の事業を興し、上水道事業を肇め後方輸送路の重要性を認めて松江市に通ずる産業路線を県道として開通せしめ、これに村営バス事業を創めて貨客輸送の便を圖れり。更に昭和初期より若くして八束郡外海水産會々長、江角漁業協同組合長となるや進んで島根県漁業組合連合會の結成に盡力し推されて會長として晩年に至る。
 在職満五年、よく今日の県漁連の基礎を築き、傍ら魚行商人の育成に心を傾ける等郷土漁業界の振興発展に努むる所極めて多し。又恒に郷党の精神作興に意を注ぎ明治維新の志士因藩五士の顕彰を圖り塋域を補修し遺品を蒐めて記念館を建立する等常時念頭に郷土愛の勃々たるものあり。世人挙げて敬仰おかざるところなりしに不幸病を得昭和十八年遂に歿せらる。時に年未だ五十四歳、痛恨焉ぞ耐えん。
 然れども氏の遺せし幾多の事蹟は後世に燦として輝き郷土今日の繁栄の因を為したりと謂うべし。宣べなる哉茲に郷党の有志相謀り氏を追慕し頌徳碑を建立されんとす。仍而不肖嘱に應じて其の碑を謹んで誌す。

   昭和三十五年三月
<建立>
昭和35年(1960年)3月(碑文より)